急な雨に降られておわた
本日だが、AMは家事ほか作業に時間を費やし、午後は映画を見るなり(後述)、ぷらぷらと散歩しながら考え事に耽るなどしていた。
現在は上記行動を経て、ずぶ濡れになりつつ帰宅し、シャワーを浴び、ポテチを食べながらこの記事を書いている。
視聴した映画(新海誠 すずめの戸締まり)については後に書くこととして、なんとなく考えたことを備忘録的に記しておく。
「自我を飼いならす」であったり「自分の機嫌は自分で取る」と言うのは、案外難しくもあり簡単でもあって、それを成立させるためには「自身の理解」など自助努力のほか、やはり「環境要因」も重要な要素であると考えている。
前者については、諸々の経験の中で内省していくことで中庸な思考が身に付き、「自分とは何か」という問いに対する解を探っていくことを意味する。
これについては本日の考えの趣旨ではないため割愛する。
一方で後者の「環境要因」はまあまあ厄介であり、完全に自身の中からその要素を抜き取るのは困難である。
というもの、自分自身も内省していく中で、「幼少期から青年期に至るまでに獲得できなかった経験」が災いして根付いた自身の性質(=一般的にコンプレックスと表現される)を認識しつつも、なかなか改善(?)できず苦しむことが多い。
勝手にひとりで苦しんでいる分には「勝手にやっておけば」と思うのだが、時にそれは「他者に対する攻撃性」に転化するのが厄介で、この点で冒頭の「自我を飼いならす」難しさをよく実感している。
簡単には「貧富の差」だったり「学歴の差」だったり、「隣の芝生は青く見える」とはよく言ったもので、自分が経験できなかった経験を有している他人というのはどうしても羨ましく映ってしまうし、時に妬ましく映るものである。
私は情報の処理がかなり下手な方であり、かつ環境要因から根付いた面倒な性質があったりするので、特にインターネットで見かけるちょっとした文言にもやついたりしていて、勝手に消耗してしまうことが多い。
これが暴走して「他人への攻撃」に繋がらないよう自制してはいるものの、根本の認知を変えていくことはやはり難しいようだ。
「楽しく暮らしたい」と思いつつも、時に他人に嚙みつきたくなる自分を認識しつつもがいているなあと、最近の自分を見て感じたのであった。
すずめの戸締まり感想(ネタバレ注意)
以下に「すずめの戸締まり」を視聴しつつ考えた内容を記載しておく。
なお、以下の内容はただの私の感想である。作り手の意図がこうだと主張する旨のものではないことを予め記載しておく。
また、感想なので用語の解説とかは省略します(読ませる気あるのか?)。
全体的な所感
Amazon Prime Videoで事前に冒頭12分程度の動画は流し見していたので、どうやら本作は新海誠の「セカイ系」作品なのかなという印象を持っていた。
冒頭の映像でも新海誠らしい表現が確認できたこと、映画の世界観に対する没入感が味わえそうなこと、ついでに言うとなんか考察できそうなこと、この3点を理由に映画館へ足を運ぶこととした。
ざっくり一言でいうとよかったと思う。
おおむね上記3点の狙い通りのものであったので映画を楽しめた。
ただし、『君の名は』とか、準じて『天気の子』のような「ファンタジー(SF)+ボーイミーツガール」的展開を期待していると、自身の予想していた経験とずれてくることが予想される内容であるとも感じた。
本作のテーマ
本作の軸となるのが紛れもなく「東日本大震災」であり、震災がきっかけとなり生じた(生じてしまった)経験であったり、震災自体に対する人々の認識を主題としている。
主人公の「すずめ」は幼少期に経験した震災により母を亡くし、叔母に引き取られる形で東北から九州へ居住する過去を持つ。
この際に、本作のファンタジー要素である「常世」を介して「未来のすずめ」と出逢い、「母を亡くした現実」に向き合えない中、「壊れかけの椅子」を受け取る形で「未来に対する希望」を抱くこととなる。
この時点で「幼少期のすずめ」と「高校生のすずめ」の二人が存在していたので、一番はじめの「すずめ」が「未来のすずめ」に出逢ったのか?など疑問が生じたりしたのだが、ここはまあ置いておいた。
「高校生のすずめ」は常世を経由して震災で母を亡くした直後の「すずめ」を見ることで、自分自身が母が亡くなったことを完全に受け入れられてないこと、そのことを認識し(母の死を受け入れ)前に進む意思を固めたこと、これにより二人のすずめが共に救われる形となっていたのは物語として素直に良かったなと感じた。
また、震災に対する(人の無自覚な)認識の描写も細かくて良かった。
すずめは物語の中で九州から東北へと移動するが、東北への道すがら、明らかに都会で育ってきたであろう人の「このあたり(東北付近)ってこんな綺麗だったんだな」という言葉に対し、彼女は「え、そうですか?」と反応する。
都会育ちの人からすると、東日本大震災はある種「非日常的」な出来事であって、極端に言うと自身の生活に関与しないのに対し、東北の震災を直に経験したすずめの目線では、震災を受けた地域というのは震災当時から「地続き」である。
実を言うと私自身は震災当時には実家(東京)にいて、確かに大きい地震で家じゅうの食器が割れるなどの経験はしたものの、それまでであった。
なんとなく東北地方の災害の状況を見て「とにかく悲惨だ」と感じたのを記憶しており、先の都会っ子の感覚と非常に近く、映像を見ながら「自然が豊かで綺麗な風景だな」などと思っていた。
そんな中での上記のすずめの発言であったので、私自身が震災に対してどのように認識しているか、作品の視聴を通じて嫌でも認識させられた点は関心した。
「開く力」と「閉じる力」
本作で特徴的だったのが、「ものの開閉」である。
これは作品名にも「戸締まり」があるし注意しながら観ていたが、行為としては「鍵の開閉」「扉の開け閉め」「自転車の鍵の開閉」などがあり、すずめの行動(というよりも開閉の描写の有無)に着目してみると、物語序盤ではすずめは「開く」ことしかしておらず、「閉じる」行為をするようになったのは中盤以降である。
本作の考察ポイントとして挙げられるものの1つが「すずめの能力」であると思っていて、上記構成は物語を通じて「すずめの能力がどのように変化していくか?」を示唆させる描写であると感じた。
物語の中ですずめはさながら家出のような形で九州から東京まで移動するわけだが、道中に出会う人たちが気持ち悪いくらいに好意的である。
ポッと出の彼女に無償で宿や食事を提供したり、身を案じてくれたり、物品を提供してくれる人ばかりである。
上記したように、物語序盤のすずめは「ものを開くことができる」ことが、家の鍵を開けたり、自転車の鍵を開けたりする形で説明されていたが、これは「人の心を開く」ことも同時に可能であるように思えた。
また同時に、ひとりの女子高生が単身で九州から東京まで移動するという大作業を担うわけだが、作中ではそれを難なく実現していったため、「切り開いていく力」とも解釈できる。
そんなわけで、すずめの第一の能力は「開く力」であるように受け取った。
一方で、中盤以降は恋愛の対象かつ救うべき対象となった草太を救うため、東京の「後ろ戸」を閉じる決心をしたすずめ。
ここで初めて家の鍵を「閉める」描写が挟まれていて、上述の「開く力」のほか、「閉じる力」もあるらしいことが示唆される。
ただしこの時点では「開閉の力」はすずめの意思とは関係なく実行されているようで、家の鍵を閉め、草太を救うために人との軋轢を生じながら我が道を進んでいく対照的である。
12年ほど見守ってくれた叔母との喧嘩や、ヒッチハイクに誰も応じてくれないこと他、物語序盤の他者と友好な関係を築いていたすずめとは対照的な姿が印象的であった。
これらから、すずめのもう1つの能力は「閉じる力」と感じた。
「開ける力」については上記した考えであるが、「閉じる力」については描写をうまくくみ取れておらず、適切に表現できていない感覚がある。
暴走すると「人との関係を閉ざしてしまう力」、制御すると「自分自身を律する(=感情をうまく閉ざす/扱う)」ような感じかと考えている。
なんやかんやで(雑)災いのもとを封印し、日常生活に戻ったすずめだが、ED付近では「家の鍵を閉め」「自転車の鍵を開ける」描写が丁寧に表現される。
このことから、本作で描かれた一連の出来事を通じて、すずめという人物が「ものの開閉」ができるようになったこと、つまり人間的に成長できたことが読み取れる。
最終的には草太との再会という機会を切り開きつつ、母の死も受け入れ自身を律することができているように感じた。
まあ総括観てよかったのではないでしょうか。
すずめが草太に好意を抱くのが?という感じでしたが、常世を介して「幼少期のすずめ」は憧れの対象となる「未来のすずめ」と出会っていて、その隣にいた草太の雰囲気が好きになるよう価値観が形成された、と解釈しておくこととしました。
余談だが、本作はIMAXで観た(表現合ってる?)。
なんかよく分からなかったが、映像のきめ細やかさ(=解像度の高さ)、おそらくIMAX用に調整されたと思われるシアターの構成(座席からスクリーン他の機器)など、固有の体験が味わえるようになっていることがよく認識できた。
個人的な感覚としては音響環境が良く、重低音が身体に響いてくる感覚が好みであったので、ハチャメチャやる作品なんかはIMAXで観ると良い経験値になりそう。
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